
大阪・新世界。串かつの香りとソースの熱気が満ちる通りを抜けると、時の流れがふっと緩む一角がある。ジャンジャン横丁は大正時代から続く商店街。呼び込みの三味線の音がジャンジャン響いたことから名付けられた。せま〜い商店街に古き店が並ぶ。そこに、黒い木の扉と、ガラス越しに光をためたショーケースが静かに立っている。

「千成屋珈琲」。昭和23年、1948年創業。ミックスジュース発祥の店だ。
ガラスの向こうには、琥珀色や翡翠色のクリームソーダ、パフェの模型が並んでいる。どれも少し霞んで見えるのは、時間の膜をまとっているからだろう。
扉の文字は白く、「千成屋珈琲」「創業 昭和23年 1948」と書かれている。その書体の古風なやさしさが、もうそれだけで旅人の足を止めさせる。

中に入ると、木目の壁がほの暗い。壁には、初代通天閣の写真がいくつも飾られている。光を受けて輝くステンドグラスのランプが、時代の記憶をそっと照らしているようだ。

昭和の女給がエプロン姿で写るモノクロの写真もある。その瞳の奥には、果物の香りとミキサーの音がまだ生きている気がした。
初代店主・恒川一郎氏が営んだのは、もとは果物店だった。熟れた果実を無駄にせず、ミキサーにかけて出したのが、この店の始まり。それがいつしか大阪の夏を象徴する飲みもの、「ミックスジュース」となった。
喫茶店へと姿を変えたのは昭和35年。以来、ここは新世界の風景とともに、静かに時を重ねてきた。
カウンター越しにオーダーを伝えると、ミキサーが小さく唸りはじめる。グラスに注がれたのは、淡い黄金色の液体。細やかな泡が、光の粒となって浮かび上がる。

750円の一杯。ストローをくわえた瞬間、濃厚なのに重たくない、不思議な柔らかさが広がる。バナナの甘み、桃の香り、そして牛乳のまろやかさ。それらが溶け合って、ひとつの記憶になる。
学生のころ、夏の午後に母が作ってくれたミックスジュースを思い出した。氷の音、すこし古びたミキサーの響き。あの清涼を超えるものには、まだ出逢っていない。
けれど、この店の一杯は、それをやさしく思い出させてくれる。「時間を凍らせる」という言葉が、こんなにも似合う場所はない。

隣には銀色の脚をもつ器に、アイスクリームが乗っていた。溶けかけたバニラの白さが、まるで昭和の午後そのものだ。そして壁には、初代通天閣の写真。その塔の根元に集まる人々の笑顔を見ていると、この町がかつて「未来」を夢見ていたことが、やわらかく胸に染みてくる。
ミックスジュースとレトロプリン。どちらも甘すぎず、どこか控えめで、人の記憶に寄り添う味。赤い椅子、木のテーブル、そして淡く灯るランプ。そのすべてが、ひとつの物語を奏でている。
千成屋珈琲には、味以上のものがある。それは、時代の息づかいと、人の想いの重なり。グラスの底に沈んでいるのは、果物の繊維ではなく、遠い夏の日の記憶だ。ミックスジュースと女神が、ここにいる。その女神は、今も、昭和23年の午後に立っている。
千成屋珈琲の店舗情報
- 住所:大阪府大阪市浪速区恵美須東3-4-15
- 電話番号:06-6645-1303
- アクセス:地下鉄「動物園前駅」から徒歩約2分
- その他アクセス:新今宮駅・新今宮駅前駅からも徒歩圏内
- 座席数:約27席(別情報では34席とする記載もあり)
- 営業時間:
- 平日:11:30〜19:00
- 土日祝:9:00〜19:00
- ※公式・運営情報では異なる時間帯の表記もあり
- 定休日:無休(ただし不定休の可能性あり)
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『月とクレープ。』に寄せられたコメント
美味しいご飯を食べるとお腹だけではなく心も満たされる。幸せな気持ちで心をいっぱいにしてくれる、そんな作品。
過去を振り返って嬉しかったとき、辛かったときを思い出すと、そこには一生忘れられない「食」の思い出があることがある。著者にとってのそんな瞬間を切り取った本作は、自分の中に眠っていた「食」の記憶も思い出させてくれる。