通天閣の膝元。雨の朝、路地の石畳がしっとりと濡れている。その一角に、白い暖簾を掲げた小さな店がある。
「あづま食堂」
昭和28年創業。七十年の時を超えて、いまも湯気の立つ台所を守っている。
入口の横には、年季の入った木札のメニュー。「玉子丼」「親子丼」「シチューうどん」。どれも短く、どれも飾らない。
店の内側に入ると、カウンターがわずか9席。女将さんが「昔はテーブルもあったんやけどねぇ」と笑う。その声に、かすかな疲れと誇りが混じっていた。磨き込まれたカウンターの木目が、何十年もの客の手を記憶している。
雨が静かにガラスを叩く音の中、名物の「シチューうどん」500円を頼む。湯気が立ちのぼり、塩の香りがふっと鼻をくすぐる。透き通る出汁。牛肉、玉ねぎ、じゃがいも。その三つだけが、器の中で寄り添うように浮かんでいる。一口すすれば、驚くほどの優しさ。日本でいちばんあっさりして、日本でいちばん旨い。昆布でも鰹でもない。塩だけの勝負。だからこそ、麺の力強さが際立つ。牛肉の脂と、玉ねぎの甘みと、じゃがいものほろりとした舌触りが、塩の海でひとつになる。全員が主役で、全員が支え合う。“侍ジャパン”のような、完璧なチームワーク。このうどん、最強なり。
食べ終える頃、カウンターの向こうで女将さんが微笑む。
「ご飯もあるよ」
すすめられるままに、かやく御飯300円と玉子味噌汁150円を追加する。
炊き込みご飯の香りが鼻をくすぐる。薄口の出汁に染まった米粒が、柔らかく口にほどけていく。玉子の味噌汁は、雲のような口当たり。ふと、遠い昔の記憶がよみがえる。初めて来た店なのに、なぜか懐かしい。“帰ってきた”という言葉が、自然に浮かんだ。
外に出ると、雨脚が少し強まっていた。店の看板の白が、濡れた舗道に反射している。それでも心は、不思議なほど晴れていた。この一杯に出逢うために、雨は降っていたのかもしれない。
通天閣の足元に、あづま食堂という小さな奇跡がある。塩だけで世界を描くうどん屋。そこには、昭和がまだ息づいている。