
蒲田温泉の黒湯に浸かり、身も心もブラックに染まった。湯上りの街の空気は妙に浮遊感があった。駅へ向かうつもりが気づけば逆方向へ。道を間違えた自分に怒りを覚えるが、ただ引き返すのは味気ない。何か食べよう。そう思ったのは腹が空いていたからか、ただ理由が欲しかったからか。
土曜の夜なのに歩く人々は皆、疲れた顔をしている。誰もがどこかへ向かっているようで、ただ時間を潰しているだけにも見える。何を抱えているのか、何を諦めているのか。早く新宿へ戻り、執筆が山積みなのに、それを考えるのも嫌だった。夜の蒲田は寂しさを纏っていた。
すき家の隣に現れたのは、「威風」と書かれた赤い看板のラーメン屋。どうやらチェーン店らしい。「濃厚味噌ラーメン」の文字が足を止めた。何かを抱え込んでいるかのような店構え、明るい照明が引っかかった。24時間営業。「いつでも」が儚い。「いつでも」は「二度と来られない」。それが東京だ。エルガー作曲の『威風堂々』が頭の中で流れる。

店の前でメニューをチェック。赤味噌も気になるが、体に残る黒湯の重さを白味噌で調和させたい。「白味噌バタコンらーめん」990円。1000円にわずか10円足りないその価格が自分らしい気がした。好きな数字だ。いろんなものが990円になればいい。

暖簾をくぐると、狭いカウンターだけの空間。木目のカウンター、目の前には家族連れが6人。泣いている赤ちゃんを囲む静かな食卓。大人たちはただラーメンに集中している。言葉はない。湯気と匂いと、それぞれの人生だけが交差する。田舎から家族旅行だろうか。

この街には希望もなければ絶望もない。ただ温泉とラーメンがあるだけだ。それで十分。

やがて運ばれてきた一杯。白味噌のスープは柔らかな光沢を帯び、溶けかけたバターが泳ぐ。鮮やかなコーンが丼に溢れるように散らばり、緑のネギが真ん中で彩りを添えている。チャーシューは控えめに沈み、どこか静かな存在感を放っている。白味噌の甘みが舌の上で優しく広がる。味は予想通り。言ってしまえば普通に美味しい。特別ではないが、裏切られることもない。こういう安心感が今はありがたい。

どんなラーメンにも旅情がある。蒲田という街に、こんな一杯がある。白味噌の甘みとバターの優しさに満たされたのか、それともただ空腹を埋めただけなのか。ただ、一杯のラーメンに逃げる場所が欲しかった。人生はラーメンのようなもの。時々、何かが足りない気がするが、だからといって文句を言っても始まらない。
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『月とクレープ。』に寄せられたコメント
美味しいご飯を食べるとお腹だけではなく心も満たされる。幸せな気持ちで心をいっぱいにしてくれる、そんな作品。
過去を振り返って嬉しかったとき、辛かったときを思い出すと、そこには一生忘れられない「食」の思い出があることがある。著者にとってのそんな瞬間を切り取った本作は、自分の中に眠っていた「食」の記憶も思い出させてくれる。