
新宿という街は、油断するとすぐに新しい景色に塗り替えられる。かつて馴染みだった店が、気づけば跡形もなく消え、次に訪れたときには別の店が客を呼び込んでいる。そんな街で、静かに、確かな足跡を残し続けている店がある。
2025年3月1日、土曜日、昼13時半。西新宿の道を転がるように自転車を走らせていた。仕事が長引いてしまい、すっかり遅くなった。あと数時間で夕飯だ。
本当は別のラーメン屋に向かうつもりだった。しかし、駐輪禁止の看板。腹減り野郎が自転車に乗っていた場合、自転車を停められないと話にならない。ふと思った。「はな火屋」はどうだろう。店名は忘れていたが、以前から気になっていた店の前に自転車を停められることに安堵しながら、赤煉瓦に囲まれた店のドアを開ける。
1997年「柳麺 はな火屋」として開店。 麺屋武蔵が新宿に移る前年のこと。2019年に移転し、店名も「らーめん はな火屋」へと変わった。

L字カウンターにアクリル板が並ぶ。移転したためか、店内は思った以上に清潔。壁掛けの扇風機の横で、やや大きめの音量でテレビが流れている。どこか懐かしさを感じさせる光景。食券機で醤油ラーメン900円の大盛りと100円で味玉を追加。並盛り、中盛り、大盛りが同価格。最近のラーメン屋は、麺を増やすのに追加料金を求めるところが多い。その中で「はな火屋」の潔さ。これぞ、ラーメン道。

驚いたのは接客の柔らかさ。一万円札しかないことを伝えると、嫌な顔ひとつせず、千円札と五千円札に両替してくれた。ラーメン屋では、露骨に嫌がられることが少なくない。ラーメンの前に、心が満たされた。

麺をすする。「えっ…?」一瞬、言葉を失う。旨い、やさしい、懐かしい。この三つが一気に脳を駆け巡り、一瞬、混乱する。そして、一瞬で昭和にタイムリープ。
野暮ったさはない。むしろ都会の洗練をまとっている。スープの表面に浮かぶ背脂が、まろやかに舌を包み込む。しつこさはなく、ホッとする、それでいて芯の通った味わい。打ち上げ花火の鮮烈さ、線香花火のノスタルジーが合わさった一杯。
「こんな店が新宿にあったのか」
12年も住んでいて、知らなかったことが恥ずかしくなってくる。俺はなんのために、摩天楼に身を埋めたのだ。

カウンターに丼を戻すと、店主が「高いのにありがとうございます」と声をかけてくれた。違う、違う、違う。こちらこそ、ありがとうございますだ。
土曜の昼時に行列ができないのは、新宿の奇跡であり、新宿の七不思議。近いうちに、味噌ラーメンを食べに来よう。
味噌ラーメン

3月3日、新宿に春の雪が降った。朝から降り続いていた雨が、昼過ぎに白く変わり、街の雑踏に驚きをもたらした。しかし、それも束の間のこと。夕方には雨へと戻り、新宿の舗道を濡らしていた。
「雪なら雪、雨なら雨、どっちかにしてくれよ」
天を仰ぐが、空はただ淡々と水を落とすばかり。知らんぷりを決め込んでいる。こういう気まぐれな天気も、嫌いじゃない。
不安定な空模様の日は、心もザワつく。気持ちが宙ぶらりんになったとき、いちばん美味しいものは決まっている。味噌ラーメンだ。これに限る。
接骨院で腰と肩をほぐしてもらい、濡れた手袋で自転車を漕ぐ。雨の匂いと、街灯が滲む新宿の風景。まだ夜には少し早い。こういう曖昧な時間が好きだ。

「味噌ラーメン大盛り、900円」
店主がやさしい声で聞いてくる。
「辛味噌にできますが、どうしますか?」
「どちらがおすすめですか?」と訊く。
「どちらでも」
なるほど、どちらでも、か。ならば普通の味噌ラーメンにしよう。

豪胆な佇まいが素晴らしい。こんがりと焼かれたチャーシュー。メンマが力強く絡まり、もやしが湯気をまとっている。その上には刻まれた青ネギ、そして、静かにたゆたう一枚の海苔。
麺を引きずり出し、一気に口へ放り込む。意外なことに、そこまで味噌が沁みていない。チャーシューも、メンマも、もやしも、どこか独立しているように感じる。スープをひと口。
……とびきり旨い。
味噌のコクと甘みが調和した、やさしい味。ちゃんこ鍋のようだ。温かく、深みがある。しかし、麺も具も、それぞれがスープとは別の世界に生きている。
これが『らーめん はな火屋』の哲学なのかもしれない。麺、スープ、具材。それぞれがひとつの丼で独立営業している。互いの店と協業しない。すべてが渾然一体となる醤油ラーメンとは正反対の世界。

外は雨。雪が溶けた新宿の街を、行き交う人々が足早に歩く。寒さに肩をすくめながら、この街のどこかで温かい何かを求めている。新宿の夜は、まだ冷たい。雪が来るかもしれない。遠くで電車の音がする。タクシーが水たまりを跳ね上げて走っていく。
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『月とクレープ。』に寄せられたコメント
美味しいご飯を食べるとお腹だけではなく心も満たされる。幸せな気持ちで心をいっぱいにしてくれる、そんな作品。
過去を振り返って嬉しかったとき、辛かったときを思い出すと、そこには一生忘れられない「食」の思い出があることがある。著者にとってのそんな瞬間を切り取った本作は、自分の中に眠っていた「食」の記憶も思い出させてくれる。