
谷町九丁目の交差点は、朝と夜でまったく顔を変える。通勤のざわめきが過ぎ、日が傾くころになると、街の音はゆっくりと深呼吸をはじめる。

その谷町筋沿いに、黒い看板が静かに浮かび上がる。「COFFEE BOX BAROQUE VOL.2」—白い文字が、少しだけ風に揺れている。

扉を押すと、かすかな焙煎の香りが胸の奥に沁みる。木のカウンターの奥には、エルヴィス・プレスリーのポスターが壁を覆っていた。ギブソン・スーパー400を抱え、カメラの向こうに微笑んでいる。1968年12月3日、NBC特別番組『Comeback Special』の姿だ。黒いレザーの衣装、熱を帯びたまなざし。この小さな店が、ステージを再現しているようだ。

若き日の写真、晩年のステージ姿、陶器のフィギュア。黄金のレコードがライトを反射して、壁の色を少し暖めている。

「エルヴィスがお好きなんですか?」と尋ねると、カウンターの中でカップを磨いていた女将さんが笑った。
「先代の母が大ファンで、後援会まで作ってたんですよ」。なるほど、だから店中がエルヴィスなのだ。

テーブルの上には、タイガー珈琲の古い金属缶。少し剥げたロゴが、昭和の時間を連れている。

「薫り高い珈琲」と書かれた暖簾(のれん)が店先で揺れ、カウンターの上には白いカップと金のスプーン。その輝きが、ステージのスポットライトのように眩しい。
一口すすぐ。酸味を抑えた深いコク。ブラックでも、ミルクを少し垂らしても、輪郭が崩れない。エルヴィスの声のようだ。ロックも、ブルースも、バラードも、どれも同じ魂の奥で鳴っている。珈琲が音楽のように胸に響く。

ランチに頼んだカルボナーラは、驚くほど上品だった。大阪の喫茶店といえばナポリタン(イタリアン)が定番だが、ここではクリームが静かに麺を包み、黒胡椒が雪のように散らされている。バターをたっぷり塗ったバケットと、さっぱりしたサラダが添えられ、ひと口ごとに店の空気と溶け合っていく。セットで1,500円。けっして安くはないが、値段の中に“手仕事の時間”がある。

壁際の時計には、エルヴィスがプリントされている。その下のテレビでは、ラスベガス時代のライブ映像が流れていた。1970年、『Suspicious Minds』を歌う姿。白いジャンプスーツに光が反射し、観客が総立ちになる。その熱が、遠く谷町九丁目のこの店まで届いている気がした。
この小さな「BOX」は、喫茶店というよりも、ひとつの“聖堂”のようだった。エルヴィスの記憶と珈琲の香りが交差する、静かな祈りの空間。扉の外には地下鉄の階段、通りの先には上本町の街並み。けれどこの店だけ、時間が逆流している。
カウンターに残るカップの跡を眺めながら思う。BAROQUEという名前がふさわしい。豪華でも派手でもなく、どこか哀しみを含んだ美しさ。そこに流れるのは、珈琲の香りとエルヴィスの声。それを支える人の記憶。
谷町九丁目。この街には、まだ知らない静かな名店が眠っている。
Coffee Box「BAROQUE vol.2」
それは、エルヴィスの歌が、珈琲の香りになって漂う場所だ。
店舗情報:Coffee Box「BAROQUE vol.2」
- 店名:BAROQUE vol.2(バロック ボルツー)
- ジャンル:喫茶店 / カフェ
- 住所:大阪府大阪市中央区谷町9-4-5 新谷九ビル 1F
- 最寄駅:谷町九丁目駅から徒歩約1分(駅出口すぐ)
- 電話番号:090-5642-8454
- 営業時間:火〜土 07:00〜22:00/日・祝 07:00〜18:00
- 定休日:月曜日
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『月とクレープ。』に寄せられたコメント
美味しいご飯を食べるとお腹だけではなく心も満たされる。幸せな気持ちで心をいっぱいにしてくれる、そんな作品。
過去を振り返って嬉しかったとき、辛かったときを思い出すと、そこには一生忘れられない「食」の思い出があることがある。著者にとってのそんな瞬間を切り取った本作は、自分の中に眠っていた「食」の記憶も思い出させてくれる。