映画において観客を真っ先に突き動かすのが食べ物。2004年公開、クリント・イーストウッドの最高傑作『ミリオンダラー・ベイビー』もそのひとつ。
女性ボクサーのヒラリー・スワンクと老トレーナーのクリント・イーストウッド。母親に見捨てられた娘と、娘に見捨てられた老人がボクシングを通して本物の親子以上の関係になっていく。この老トレーナーの好物がレモンパイだ。
世界タイトルマッチへの挑戦前、ヒラリー・スワンクが父と通った『アイラのロードサイド食堂』で老トレーナーに本物のレモンを使ったパイを食べさせる。
最高の笑顔を浮かべ「このまま死んでもいい」と言う老トレーナー。大げさなシーンだが微笑ましい。
不器用で頑固一徹のイーストウッドがステーキや高級料理ではなく、ちっぽけなレモンパイと心中できるところに愛情の深さを感じる。全編に陰影が多く、壮絶なラストの物語の中でレモンパイが太陽となって2人を照らしてくれる。
春雷が鳴り響いた3月13日の土曜日、毎週、師匠に会いに行っている立石のケーキ屋さんにもレモンパイが登場した。
レモン風味のムースの下に、酸味の効いたタルト、アクセントでレモン葉のオブジェが添えてある。
やさしい酸味なのに、レモンの斬れ味は失っていない。本物を使っているからだろうか。世が世なら「心中してもいい」と言える味だ。
今年75歳になる師匠とボクの関係は『ミリオンダラー・ベイビー』に似ている。30歳を過ぎてからプロを目指した遅咲き、スカウトではなく弟子にしてくれと押しかけたことも同じだ。
師匠は文章の添削だけでなく、仕事やプライベートの相談に乗ってくれる。1時間のダイアローグで自分を生まれ直す場所であり、千利休の茶室のような宇宙空間。
師匠がいなければ東京という闇の中で路頭に迷っていた。「俺の才能を全部くれてやる」と言う師匠は太陽以上に明るい。
イーストウッドがアイルランド語で「モ・シュクラ」、すなわち「愛する人よ、お前は私の血だ」と瀕死のヒラリー・スワンクに語りかけるが、同じことを師匠から感じる。
カフェオレとケーキ合わせて800円だが、7年間のぶつかり稽古はミリオンダラー以上の価値。
このレモンパイは、これからも道標だ。