
天王寺七坂のひとつ・源聖寺坂(げんしょうじざか)を登りきると、谷町筋に風が抜ける。その角に、小さな灯がある。
「谷九 ふる里」

古びた黄色い提灯が、朝も夜も変わらずそこにぶら下がっている。文字は薄れ、看板の端は少し黒ずんでいるのに、なぜだろう、どこか温かい。帰ってくる人を、いつまでも待っている家のようだ。

壁一面に貼られたサイン色紙は、時間の化石のようだ。芸人、俳優、タレント、夜の街の人々。ここを訪れた者たちの名前が、所狭しと並んでいる。
天井の木枠の隙間にはホコリが溜まり、カウンターの角は手の脂で光っている。それらすべてが“老舗の肌触り”になっている。

うどんと寿司。この二つが一緒に並ぶ店は、いまどき珍しい。大阪では異端のようでいて、実はこの町の混沌をよく映している。
うどんの出汁は、驚くほど澄んでいる。関西らしい甘さを抑えた、薄口の醤油ベース。具は青ねぎ、えのき、白菜、しめじ。平打ちの麺がふるりと揺れ、口の中でほぐれていく。
寿司は三貫。海老、イカ、そしてハマチ。どれも控えめな酸味で、出汁の香りを邪魔しない。“関西の朝”そのもののような穏やかさがある。
「うちは清風の生徒さん、よう来てくれはるんですわ」
厨房の奥からおばあちゃんが声をかけてくれる。カウンターの向こうで、偶然居合わせた家族連れの男性も頷く。「僕も清風ですわ」
この小さな店の中で、世代と世代が交わる。卒業後も変わらぬ味に惹かれて、通い続ける人たちがいる。その中には、今田耕司のような芸人の姿もある。40年の歳月を超えて、この出汁の香りに帰ってくる。
ふる里うどん、880円。寿司、450円。
深夜も朝も、いつでも同じ値段で同じ味。この町で暮らす人々の時間のリズムに、店が寄り添っている。終電を逃したサラリーマンが暖をとり、夜勤明けの看護師が小腹を満たし、学生が未来を語りながら、うどんをすすっていく。
ここでは、どんな時間の積み重ねも“汚れ”ではなく、“記憶”なのだ。

外に出ると、朝の光が坂を下ってくる。提灯が風に揺れ、どこか懐かしい音を立てた。
谷九ふる里。それは、夜の街に咲く朝顔のような店である。
基本情報・所在地・アクセス
- 店名:谷町 ふる里(ふる里)
- 旧所在地:大阪市天王寺区生玉寺町1-32(谷町九丁目駅付近)
- 新所在地:大阪市中央区高津3-2-30 ヴァンデュール日本橋 City Life 1階
- 電話番号:06-6773-2267
- 日本橋駅から徒歩2〜3分(新店舗)
- 営業時間:24時間営業
- 定休日:無休(元日を除く可能性あり)
- 支払い方法:クレジットカード不可
大阪のうどん屋
道頓堀の思い出
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『月とクレープ。』に寄せられたコメント
美味しいご飯を食べるとお腹だけではなく心も満たされる。幸せな気持ちで心をいっぱいにしてくれる、そんな作品。
過去を振り返って嬉しかったとき、辛かったときを思い出すと、そこには一生忘れられない「食」の思い出があることがある。著者にとってのそんな瞬間を切り取った本作は、自分の中に眠っていた「食」の記憶も思い出させてくれる。