
鶴巻温泉の「弘法の里湯」につかり、ほてった体を冬風で冷ましながら歩く。時刻は18時。もうすぐ温泉街に夜の帳が降りる。湯上がりの余韻を楽しみながら、どこかで軽く食事をと思い、ふと目に留まったのが「白鬚食堂」だった。
木目の外装に、白地に黒字のシンプルな看板。小さな食堂らしからぬ、どこか洒落た雰囲気。入口には「丹沢ジビエ」の幟が風に揺れ、扉の横にはメニューがずらりと並ぶ。シェフのご主人がこの外観に一目惚れしてオープンしたという。丹沢の名峰・大山の阿夫利山荘から仕入れている野生肉(ジビエ)を味わえる食堂らしい。

扉を開けると、想像以上にコンパクトな空間。6名が限界の小さな店内は、まるでアメリカのカフェのような温かみがある。壁にはポップなイラストと手描きのメニューが並び、どこか手作りの温もりを感じさせる。ウッディな内装に、控えめな照明。両隣に女性客。左側は年配のクライマー。登山帰り。右隣は女同士の友達。常連客らしい。

頼んだのは、ジビエカツ(猪ひとくちカツ)セット1500円。安くはないが、滅多に食えない猪。少し東出昌大になった気になれる。

しばらくすると、皿に盛られたひとくちサイズのカツが運ばれてきた。こんがりと揚がったジビエのカツに、キャベツの千切りと自家製ソースが添えられている。脇には、白米と味噌汁。シンプルな構成だが、洗練された美しさがある。
衣はサクサクと軽やかソースをつけずに一口。衣はカリッと軽やか。だが、驚くほど柔らかい。想像していた野生の強さ、獣臭さはまったくない。むしろ上品な風味が際立つ。クセがない。ジビエと聞かされなければ、普通の洋食屋のカツだと思う。完全に裏切ってくれた。これは、いい。噛めば噛むほど、旨味が染み出てくる。秦野はZARD坂井和泉の故郷。この店の味も、透明な美しさがある。
世の中の名店ってのは、たいてい小さな店。店主のこだわりが詰まった狭い空間で、最高の一皿が生まれる。そして、ここもそういう店のひとつだ。
湯上がりの体に染み込むカツ。狭いカウンターの温もり。そして、口の中に広がる獣の旨味。「いい夜だ」
食の憶い出を綴ったエッセイを出版しました!

『月とクレープ。』に寄せられたコメント
美味しいご飯を食べるとお腹だけではなく心も満たされる。幸せな気持ちで心をいっぱいにしてくれる、そんな作品。
過去を振り返って嬉しかったとき、辛かったときを思い出すと、そこには一生忘れられない「食」の思い出があることがある。著者にとってのそんな瞬間を切り取った本作は、自分の中に眠っていた「食」の記憶も思い出させてくれる。