食いだおれ白書

世界を食いだおれる。世界のグルメを紹介します。孤高のグルメです。

日本料理・龍吟

日本料理・龍吟

人生で一度は味わいたい料理があった。

「日本料理 龍吟」の山本征治が生み出す一皿。

きっかけは、上京直前に何気なく見たNHKの『プロフェッショナル』。そこには、門外不出とされるレシピを、普及前のYouTubeで惜しみなく公開する料理人の姿があった。「日本料理の未来に貢献したい」と笑顔で語りながら、その眼光は「俺の味を再現できるならやってみろ」と挑むようだった。食べた瞬間、きっと食の価値観が根底から変わる。そんな予感を抱かせた。

平成二十六年三月三日、桃の節句。ライターを目指し奈良から新宿に越してきたが、まだ仕事も決まらず、貯金を切り崩して過ごすニートの生活だった。ミシュラン三つ星、一食3万円という大金は冒険そのもの。リクルートスーツを唯一の勝負服に六本木へ向かった。

六本木駅を出て、東京タワーと反対側へ進む。賑やかな街の喧騒から離れた裏通りに足を踏み入れると、ぼんやりとした灯籠の光が道を照らしている。静寂の中で浮かぶ暖簾をくぐると、壁一面に描かれた巨大な水墨画の龍が、静かに息づいている。漆黒の壁と金色のレースで覆われた空間が広がり、古代中国の龍宮に迷い込んだような幻想に包まれた。

席に着くと、純黒のおしぼりに銀字で「龍吟」と刻まれている。その香りはハーブのように芳醇で、思わず笑みがこぼれる。周りを見渡すと、すでに先着している3組の男女はすべて欧米人。まるで異国の地にいるような感覚に陥る中、給仕の20代の男性が柔らかい笑顔で「写真を撮っても構いませんよ」と声をかけてくれた。その一言が緊張をほどき、心に温かな風を運んでくれた。

コース料理は9品。最初に運ばれてきたのは「松の実和え」。次いで「蒸し鮑」や「下関のトラフグ唐揚げ」、「阿蘇あか牛の炭火焼き」、「新潟の若竹ご飯」……どれもが美しく、一皿ごとに物語が宿っている。そして最後は、甘く熟した苺を一粒。熱燗と冷酒を口に含み、夢のような時間を反芻していた。

しかし、忘れられないのはただ一つ。「一番出汁への想い」と記された献立の三品目のお椀。車海老の真薯と厚削りの鰹節で取った出汁。鰹節を削ってから客席に運ばれるまでのわずか2分の勝負。その一杯を口に含むと、東京に来た意味がすべてここに集約されたように感じられた。これまでの30年の味覚を裏切る、深遠な風味と旨味。単に美味しいというだけでは語れない、それは絵画や彫刻のような芸術作品そのもの。

その味わいから伝わるのは、才能や閃きだけでは到達できない領域。物書きを志す道の途中、目指すべき道標のように思えた。思わず厨房の壁に向かって心の中で「ありがとうございました」と頭を下げた。

食事を終えた帰り際、外で店主の山本氏に会わせていただいた。静かな微笑みとともに「また来ます」と伝えた私の言葉を、彼はどんな風に受け取っただろうか。それから10年。店は六本木から日比谷へと移転し、今では一人4万4千円。それでも、「また来ます」と胸を張って言える日はまだ訪れていない。

あの夜の龍吟は今も六本木の裏通りで息づいている。料理が語る物語、その一片に触れた日の記憶を胸に抱えながら。

月とクレープ。Amazon  Kindle

※このエッセイは、著書『月とクレープ。』に収録した「龍が如く」を加筆・修正したものです。気に入った方は、ぜひ100円の電子書籍もご購入ください。他にも食の思い出が綴られています。