
世界でいちばん美しい白銀が視界いっぱいに広がる。雪に染められたチョモルンマ。どこまでも高く、厳然とそびえるその姿は、まるで天を目指して建てられたバベルの塔のようだ。その冷たくも凛とした威厳が、訪れる者の心を揺さぶる。10月のアドバンス・ベースキャンプにいるのは、僕たちの小さな登山隊だけだった。
エヴェレストには、1日のうちに四つの季節が訪れる。朝は冬の静けさに包まれ気温は零下。日が昇ると、春のような陽気が広がり桜の花がほころぶ気配すら感じる。昼間は完全な夏だ。太陽が肌を褐色に染め、半袖で動き回るのが心地よい。夕方4時を過ぎる頃には秋が訪れ、夜の帳が下りると再び冬がその顔を覗かせる。夜、シュラフ(寝袋)の中で登山ウェアを詰め込んでも、足元は凍えるほどの寒さだ。
標高5500メートルの朝は格別だ。薄い空気の中で、命を強く感じる。僕たち10人――日本人4人、ネパール人5人、チベット人1人――それぞれが、自分だけの夜明けを心に抱きしめる。5時半、iPhone 5cから流れる高橋優の『陽はまた昇る』が、静かな朝にそっと響く。寝袋の中で血中酸素濃度を測り、異常がないことを確認する。それからシェルパたちがテントをトントンと叩きに来る。たいていの場合、それはチベット人のゴンプさんだ。
「まっちゃんさ〜ん、おはよございま〜す」
「ゴンプさん、ナマステ〜」
日本語とネパール語が軽やかに交わる挨拶。彼の手には、甘いネパール・チャイが入ったチタンのカップ。香ばしいスパイスの香りが鼻先をくすぐる。エヴェレストの雪を溶かしたタトパニ(お湯)に、マサラを加え、ミルクで煮出した一杯。湯気がふんわりと立ち上がり、ほんのり香るシナモンが、朝の眠気をそっと撫でる。
ゴンプさんとの出会いは1年半前。ネパールで大地震が起き、支援のために薬を届けに行ったときだった。訪れたのは「世界でいちばん美しい村」と呼ばれるラプラック村。そこでの初めてのテント泊、不安だらけの朝に差し出されたのが、このネパール・チャイだった。それまでミルクティが苦手だった僕を優しく変えてくれた。
今回の遠征も、チャイとの再会が何よりの楽しみだった。しかし、ヒマラヤに入って1週間も経たないうちに、高山病に倒れた。インフルエンザのような吐き気と頭痛が続き、薬も効かない。標高5100メートルまでマイクロバスで登ったものの、町へ引き返さざるを得なかった。3日間休養したのち、再びアドバンス・ベースキャンプ(ABC)を目指すことになった。
付き添ってくれたのは、日本人カメラマンとゴンプさん。それにネパール人のマンディップが重いザックを持ってくれた。途中、川に差しかかると、ゴンプさんとマンディップが石を集め、ズブ濡れになりながら即席の橋を作ってくれた。冷たい川に浸かった彼らが僕の手をしっかりと握り、落ちないよう対岸まで導いてくれる。
道のりは決して容易ではなかった。13時を過ぎると太陽がチカチカと「もう少しだ」と語りかけるようだったが、キャラバンは終わらない。足は重く、ペースは落ちる。あと数十メートルというところで心が折れそうになった。そのとき、斜面を駆け下りてくるシェルパのアシシが目に入った。魔法瓶を抱え、走りながらシェラカップにチャイを注いでいる。
「まつだダイ! がんばったね!」
漫画のようなその光景に笑いそうになりながらも、差し出された温かなカップを口に運ぶ。甘く、優しい味が体を満たしていく。ヒマラヤの全てを抱えたような一杯、それが僕に最後の力をくれた。やっとの思いでたどり着いたABC。苦しさの中に差し込む一筋の光のように、心をそっと溶かしていった。

※このエッセイは、著書『月とクレープ。』に収録した「雪消のミルクティ」を加筆・修正したものです。気に入った方は、ぜひ100円の電子書籍もご購入ください。他にも食の思い出が綴られています。