
新宿・思い出横丁にある「かめや」は、昭和46年(1971年)に創業したファスト蕎麦。カウンター8席、仲通りと表通りが交差する十字路にあり、戦後の屋台文化の流れをくみつつ、長年変わらぬ味を守り続けている。
「かめや」の蕎麦を味わうことは、すなわち新宿の歴史を啜ることである。

上野池之端の老舗割烹「亀屋一睡亭」を母体とし、新橋、神田、御徒町、銀座など都内に6店舗を構える。思い出横丁は日曜日が定休だが24時間営業。コンビニ蕎麦である。

名物は「元祖 天玉そば」。揚げたての天ぷらに半熟玉子がのった蕎麦に、濃い麺つゆ。かめやボリュームと味わいで人気が高く、昼夜を問わず多くの人々が足を運ぶ。

思い出横丁の深夜であろと、早朝であろうと、列は絶えない。昭和の面影とともに、かめやは“変わらぬ日常の味”として、訪れる者に温もりと満足感を与え続けている。
元祖 天玉そば

2025年6月13日の金曜日。東京は梅雨入りしたのに肌寒さが残る。曇天だが、雨は降らない。朝10時。まだ眠気の残る匂いが漂っている。ひとりだけ並んでいた。5分も待たずに席が空く。元祖 天玉そば560円を注文。
2023年は490円のワンコインだったが、物価高の波は立ち食い蕎麦にも容赦ない。今後はもっと高騰していくだろう。

「かめや」は着丼と同時に料金を払うシステム。
平成生まれの人はピンと来ないと思うが、昭和のテレビドラマでは、関西の人間が東京に来て、蕎麦を頼む。そして黒いスープを見て、「なんやこれ!?墨汁でも入れたんか!?」と驚き、口にして「しょっぱくて、こんなん食えへんぞ!」と残す。そういう決まり文句のような台詞が、当たり前のように繰り返されていた。
自分も高校生のとき、初めて麺屋武蔵の醤油ラーメンをすすったとき、あの出汁の濃さに面食らった。けれど、今やそれがスタンダードになり、関西の出汁は“旅の味”になった。

これぞ東京の蕎麦。濃い口のつゆに、温泉卵のまろやかさがとろけていく。天ぷらの衣はつゆを吸って柔らかく、蕎麦に寄り添う。まさにファストフード。しかし、侮ることなかれ。名店の繊細さはない。だが、歴史と文化が染み込んだこの一杯は、たまらなく美味しい。1000円以上する高級そばも珍しくないが、蕎麦は江戸の庶民が立って食うもの。これくらいの値段、これくらいの素朴な美味しさであってほしい。
蕎麦をすすり、立ち去る人々の背中を見送りながら、また来よう、と思った。
天ぷらうどん

朝8時半。思い出横丁の表通りのシャッターは、ほとんど閉まっている。街が目覚めるには少し早い・2日連続で「かめや」。初夏の暑さが、本気を出し始めた。湿気を帯びた風が首元をなでる。そろそろ温麺が苦しくなる。その前に熱々の「天ぷらうどん」を食べておきたい。
かつて大阪の上本町に「いせや」という食事処があった。土曜の授業が終わると、弟と友人とダッシュで「いせや」。必ず天ぷらうどんを食べた。中学・高校の6年間、飽きずに天ぷらうどん。一種の儀式のようだ田。昆布出汁の大阪うどん。浪速の味を身体に、骨に染み込ませる。今でも目隠しで出されたら、「いせや」の味は当てられる気がする。記憶が、舌に残っている。

「かめや」の天ぷらうどん500円。関西の出汁が染み付いた身体には、これまで東京のうどんは受け付けなかった。色が濃く、味も濃く、違和感しかなかった。
「かめや」は別。これくらい極端に甘じょっぱいと力が湧いてくる。喉に、胸に、胃に、東京の熱が通っていく。新宿を離れると決めたら、この味が恋しい。
食べ終わるとTシャツに汗が吹き出していた。冷やし蕎麦の季節が始まる。
冷やし天玉そば

夏の顔・冷やし天玉そば。空調などない屋台街の思い出横丁。冷やし蕎麦は、氷水ではなく冷水で締めるからキンキンには冷えていない。おまけに天ぷらは揚げたて。熱々、ホクホク、サクサク。面食らう崖っぷちギリギリの冷やし天玉そば。まさにカオスな新宿。

後半には熱々の蕎麦湯も登場。もはや「涼」は行方不明。しかし、揚げたて、茹でたてだから美味い。問答無用で旨い。新宿という問答無用の街。旨いという暴力の勝利。
冷やしきつねそば

TOHOシネマズ新宿で、映画『メガロポリス』(コッポラ監督)を観る前の腹ごしらえ。時刻は朝10時、店内はすでに賑わい、わずかに3席の空き。梅雨特有の湿気と、厨房から立ち上る熱湯と揚げ油の熱気が絡み合う。正直、冷やし蕎麦を食べるには過酷な環境だ。

油に頼らない“純度の高い冷やしそば”。揚げたての天ぷら蕎麦とは対照的に、具材すべてがひんやりと冷えている。甘みの強い油揚げは、いなり寿司にすると良い。ネギのシャキッとした苦味がその甘さを引き締め、バランスは良好。
そこに温泉卵が加わることで、全体の味がまろやかにまとまり、特に油揚げの甘味をやさしく中和してくれる。
そして最後には、そっと注がれる蕎麦湯。冷たいそばの余韻を、あたたかく優しい締めに変えてくれる。この一杯に、老舗「かめや」の人情が宿る。
かけそば

時代劇漫画『そば屋幻庵』を読むのが、朝の目覚めの習慣になっている。一話完結の人情話に心がほぐれ、ほっこりとした気持ちで一日を始める。
2025年6月30日、朝9時半。すでに気温は33度。危険な夏。そんな朝に選んだのは「かけそば」390円。かめやのメニューで最も安い。
蕎麦つゆから立ち上る湯気がモウモウと空間を支配し、隣で冷やしそばを啜る客にまで熱が届く。昭和のドラマで関西人が「墨汁でも入れたんか!?」と驚くほどの黒さ。
ひと口すすると、想像を裏切らぬ強烈な甘さが舌に走り、目覚まし時計のように意識を呼び起こす。蕎麦は労働者のためのファストフード。塩分多め。『そば屋幻庵』の味もこんな感じだったに違いない。
内臓の奥から静かに火が灯る。これが、朝の一杯。体も心も、ようやく今日を迎える準備が整った。
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『月とクレープ。』に寄せられたコメント
美味しいご飯を食べるとお腹だけではなく心も満たされる。幸せな気持ちで心をいっぱいにしてくれる、そんな作品。
過去を振り返って嬉しかったとき、辛かったときを思い出すと、そこには一生忘れられない「食」の思い出があることがある。著者にとってのそんな瞬間を切り取った本作は、自分の中に眠っていた「食」の記憶も思い出させてくれる。