
新宿に住んで12年が過ぎると、ふるさとの風景が、変わっていることに気づかないまま過ごしてしまう。帰省したとき、桜井駅の前に、金色の看板を光らせた台湾料理店があるのを見つけた。
大きく書かれた営業時間、吊るされた真っ赤な提灯、中国語でびっしり書かれたメニュー。その外観だけでも、ここが本気であることが伝わってくる。
「汇鑫源(カイシンゲン)」。中国語で「お金」と「繁栄」を意味する、縁起のよい名前。いつからこの町にあるのか、家族に尋ねてみると「数年前から」と母があっさり答えた。こんな辺鄙な田舎に、なぜか異国の香りがする暖簾がかかっている。

2025年3月31日。開花宣言が出たばかりの桜が、まだ初々しいまま風に揺れていた。母とふたりで昼に訪れた。
壁に貼られた装飾、天井から吊るされた朱色のランタン、ぎっしりと並んだ瓶の群れ。
内装は華やかだがどこか懐かしく、雑多な空間に不思議な温もりがある。八角の匂いはしないが、台湾の屋台街に、ほんのひととき紛れ込んだような感覚。
どうやら台湾から移住した家族らしい。日本語はカタコト。なぜ移住の地に桜井を選んだのだろうか。山辺の道、古墳、神話、仏教伝来の地。見えない記憶がこの土地には沈んでいる。台湾から来た人々にも、ほんの少しだけ伝わったのかもしれない。

驚いたのは、店内が賑わっていたこと。作業着姿の労働者、制服の女子高校生、定年を迎えた老夫婦が、思い思いにランチを楽しんでいた。桜井にこれほど多彩な客層が一堂に会する店があっただろうか。そんな風にさえ思えた。

台湾料理(中華料理)よろしく、メニューが豊富。

週替わりメニューは、3月の最終日にもかかわらず「第1週」の札が下がっていた。どこか台湾らしい、ゆるやかな時間の流れを感じさせる。
A定食(880円)
八宝菜

母親は八宝菜がメインの880円のA定食。ご飯を食べきれなかったので、残すのが勿体無いので僕が食べた。
青椒肉絲

大好きな青椒肉絲。ピーマンの淡い苦味が心地いい。味付けも軽やか。炒め方が見事で、重たくならず、箸が止まらない。どっしりしたボリュームも嬉しい。
きくらげたまご

間違いなく汇鑫源(かいしんげん)のスペシャリテ。東京で数えきれないほど食べ歩いてきたが、間違いなく三本の指に入る。調味料に頼りすぎず、卵のふわふわ感ときくらげの食感が、餡の優しさと一体になって心に沁みる。ここまで餡が多いのは珍しい。餡のペルシャ絨毯や。鍋料理をいただいているような、体の芯まで温まる味。
この味は、甥や姪にも、子どものうちから味わってほしい。家族みんなで来たときには、一品料理として注文したい。
この汇鑫源(かいしんげん)は、素朴で真っ直ぐな台湾の味に、日本の町の風景が優しく溶け込んでいる
B定食(980円)
鶏肉カシューナッツ炒め、台湾ラーメン

990円のB定食にすると、揚げ物や麺類まで付いてくる。新海誠『言の葉の庭』で有名になった「鶏肉のカシューナッツ炒め」と「台湾ラーメン」をオーダー。
運ばれてきた料理は、想像を遥かに超える量だった。真っ赤なスープの表面には挽き肉と唐辛子が浮かび、炒め物の皿は野菜とナッツで溢れている。
台湾の食文化は詳しくないが、中国では、食べきれない量を客人に振るまわうのが礼儀。完食は物足りない証であり、料理を残すのが常道。最近では食品ロスの風が吹き、「光皿運動」と、最後まで料理を食べ切る風潮も広まっているが、ここは古き伝統を受け継いでいる。
箸を進めるうちに、その味わいにどこか安堵を覚えていく。台湾ラーメンは容赦ない辛さで喉にくる。けれどそれが妙に後を引く。白身魚のフライは、衣のサクサク感を残しながら、中からふわっと優しい旨味があふれ出す。台湾の家庭で出されるような、心がほぐれる味だった。

ご馳走様。腹がパンパンになるほど昼食を食べたのは久しぶりだ。姪や甥は「餃子の王将」の大ファンだが、次からはカイシンゲンに連れてきたいと思う。
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食の憶い出を綴ったエッセイ集

月とクレープ。寄せられたコメント
美味しいご飯を食べるとお腹だけではなく心も満たされる。幸せな気持ちで心をいっぱいにしてくれる、そんな作品。
過去を振り返って嬉しかったとき、辛かったときを思い出すと、そこには一生忘れられない「食」の思い出があることがある。著者にとってのそんな瞬間を切り取った本作は、自分の中に眠っていた「食」の記憶も思い出させてくれる。