
新宿・思い出横丁にある「うなぎカブト」
創業は戦後まもない昭和二十三年。扱うのは、鰻のすべて。頭、背びれ、腹びれ、肝、レバー、しっぽ。ありとあらゆる部位を、備長炭で炙る。
鰻の串焼き、一本。思い出横丁の仲通り、十字路のクロスロードに佇むカウンターだけの11席。

6月9日は、エヴェレストに連れて行ってくれた登山家の誕生日。アタック前の朝は必ず、ご飯に鰻の蒲焼の缶詰を乗せ、鰻重にしていた。「うなぎのぼり」の言葉どおり、単独行のクライマーには縁起がいい。ゲンを担ぐ登山家らしい勝負飯だった。

グルメ漫画『乱歩の美食』で知った「うなぎカブト」へ。2025年6月9日(月)、登山家は世界一の雨男だったが、まだ雨は降っていない。夕方から降るようだ。

13時のオープンと同時に暖簾をくぐると、すでにカウンターには5人が座っていた。全員の前に、アサヒのビール瓶。誰も声を発さない。ただ、静かにグラスと向き合っている。過去と語り合ってるのか、未来の予想図を描いているのか。禅寺に来たような重厚な空気が漂う。
岐阜屋には「岐阜屋時間」があるように、思い出横丁の店は、それぞれの時間が息づいている。

ウーロン茶400円と、すべての部位が出てくる「一通り」2300円を注文。隣の常連のおじさんが「お酒は飲まないの」と訊いてくる。口調は穏やかだが、「?」ではなく「!」だ。
「このあと仕事あるので」と返すと、「そう」と微笑んだ。まだ50代か60代に見えるが、最近、ひ孫が生まれたらしい。

「串打ち3年、裂き8年、焼き一生」と呼ばれるほど、鰻は調理が難しい料理。店主はプロレスラーのような雰囲気がある。お手並み拝見。

トップパッターは「えり焼き」。鰻の首の部分。骨ごと豪快に焼き上げ、甘辛いタレで仕上げてある。香ばしく、噛み応えがある。「ウチはスーパーのふにゃふにゃ鰻とは違う」と言わんばかりの気概。鰻専門店の存在感を見せつける一品。

「ひれ焼き」は、背びれ、腹びれ、尾びれを巻きつけた串焼き。柔らかく、脂がじんわりとにじむ。骨がなく、1品目と緩急が効いている。

三番打者から串は一本になる。「きも焼き」は、肝臓以外の内臓を集めた串焼き。強い苦みがある。その奥から、旨味がにじんでくる。味の深みとは、こういうものを指すのだろう。

チームの顔、四番バッターは鰻界のスター「蒲焼き」
圧倒的な主役感、豊穣な弾力。ぷりぷり鰻が踊る。雪山もスキップしながら登れるような力強さと浮遊感。やはり、クライマーの鰻は蒲焼だ。

トリは一番人気の「れば焼き」。売り切れる日もあるほど。
これぞホルモン。口に含んだ瞬間、鰻の命の余韻が伝わってくる。ただ美味いだけでなく、鰻の存在そのものに、感謝したくなる味。
美味しさなら「蒲焼き」が最強だが、食への感謝は、「れば焼き」が一番強い。
来年の6月9日は、新宿ではなく、故郷の大和(奈良)にいる。
また鰻を食べているのか。あるいは、別の何か、新しい一歩を踏み出しているのか。
今の自分には、まだわからない。
- 営業:13:00~20:00
- 休み:日曜、祝日
- 席数:11
- 支払:現金のみ
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食の憶い出を綴ったエッセイ集

月とクレープ。寄せられたコメント
美味しいご飯を食べるとお腹だけではなく心も満たされる。幸せな気持ちで心をいっぱいにしてくれる、そんな作品。
過去を振り返って嬉しかったとき、辛かったときを思い出すと、そこには一生忘れられない「食」の思い出があることがある。著者にとってのそんな瞬間を切り取った本作は、自分の中に眠っていた「食」の記憶も思い出させてくれる。