食いだおれ白書

世界を食いだおれる。世界のグルメを紹介します。孤高のグルメです。

エヴェレストの雪解け水

エヴェレストの雪解け水

テントを出た瞬間、息を呑んだ。夜の22時半だというのに、まるで夕方のような明るさ。月光がこれほど眩しいものだとは知らなかった。天体観測用のカメラを抱えてきたが、星なんてどこにも見えない。上弦の月がこれだけ輝くのだから、満月になったらどれほどの光を放つのだろう。

「ほら、ここは別世界だろう?」
お月様が微笑むように口角を上げている。思わずヘッドランプをポケットにしまい込む。

ここは標高5500メートル、エヴェレストのアドバンス・ベースキャンプ。登山隊の間ではABCと呼ばれる場所だ。ほんの少し前、高山病で生死を彷徨った自分が嘘のようだ。今はカレーをおかわりできるまでに回復した。

ヒマラヤでは高山病を防ぐために1日6リットルもの水分を摂る。脱水症状で血液がドロドロになり、脳梗塞を引き起こす危険を避けるためだ。その水を汲んでくれるのがゴンプさん。チベット人でもうすぐ50歳を迎える。料理を振る舞うキッチン・シェルパの一人である。分厚いダウンジャケットをまとい、黒と柿色のグラデーションが美しいズボンを履いた姿は堂々としている。ロバのような顔立ちは俳優のジェームズ・コバーンにそっくりで、その瞳の奥は黒曜石のように深く輝いていた。

ゴンプさんは、ネパールの首都カトマンドゥダルバート一品だけを出す小さな飲食店を営んでいる。長男、長女、次男の三人の子どもがいて、長男はもうすぐ高校を卒業する。長女は卒業後、ドイツに留学する予定だという。寡黙で他のシェルパたちともあまり言葉を交わさないが、時々テントにお邪魔すると、HUAWEIスマホアメリカのプロレス「WWE」を観ていたりする。その姿に、山と家族、日常と非日常を行き来する彼の人生が垣間見えた。

ロンブク氷河から汲んできた雪を溶かして作る水は、夜には「タトパニ(お湯)」として魔法瓶に入れられ、日本人が使う大型テントに届けられる。その水が硬水なのか軟水なのかはわからない。ただ、エヴェレストの雪からできた湯を毎晩飲み干すたび、再び高山病に戻らないよう祈る気持ちになった。

ある日、登山家たちが高所順応のためにABCを離れた。シェルパやカメラマンたちも同行し、残ったのは僕とゴンプさん、そしてキッチン・シェルパのリーダーであるダンさんだけだった。夕方、大型テントで動画編集の練習をしていると、外から急な声が飛び込んできた。

「まっちゃんさん! まっちゃんさん!」
「どうしたの、ゴンプさん?」
「エヴェレスト、ナイスビュュュュウ!」

外に出ると、ゴンプさんが五歳児のようにピョンピョン跳ねながら、右手を指し示していた。そこには、夕陽に照らされたチョモルンマがそびえている。頂上はピンクゴールド、腹のあたりは淡いオレンジ色。その光景は世界最大の宝石のようだった。そして、その光景を見つめるゴンプさんの瞳は黒曜石よりも美しかった。

その夜、ゴンプさんは「スラーヤ(衛星電話)を貸してほしい」と言ってきた。電話代が高額なため、登山家からは絶対に貸すなと言われていたが、ゴンプさんの「家族に電話したい」という一言に逆らえず、黙ってスラーヤを渡した。

翌日、ゴンプさんは突然山を下りた。別れ際、ヤフーのメールアドレスが書かれた紙片を黙って渡され、何も言わないまま背中が遠ざかっていった。ダンさんと喧嘩をしたらしい。登山家は「ゴンプさんも若いなあ」と苦笑していた。

夜、登山隊が戻り、大型テントは再び賑やかさを取り戻した。ただ、そこにタトパニはもうなかった。ゴンプさんがいたときは、魔法瓶はいつもいっぱいだった。その雪解け水を飲むたび、ヒマラヤ人になれた気がしていたのだ。

夕飯を済ませ、テントを出ると、星と月が見事な共演をしていた。僕は立ち尽くし、心が静かに揺れるのを感じていた。

 

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※このエッセイは、著書『月とクレープ。』に収録した「チベタンの魔法瓶」を加筆・修正したものです。気に入った方は、ぜひ100円の電子書籍もご購入ください。他にも食の思い出が綴られています。